スマガ感想、考察(ネタバレ危険)

スマガ 特別限定版
スマガ 特別限定版
posted with amazlet at 08.10.04
ニトロプラス (2008-09-26)
おすすめ度の平均: 4.5
5 おまえに魔女が救えるか!?
4 体験版段階での感想
4 コメディ系なのかシリアス系なのかハッキリしてほしい。

スマガをプレイした。

 楽しめた。楽しめました。楽しめたうえ大ボリュームゲームだった故、現在虚脱感満載で感想書き付けている次第。
 ネタバレ放題なんで未プレイの方はこの先読まない方がよいかと。
 エロゲやりたいなー、最近のでなんか面白いのはないかなー、と思ってる人には無条件でお勧めです。エロゲやらなーい、って子もガガガ文庫で小説出るらしいのでお勧め。
 独特の世界観、Swinging Popsicle(懐かしい、たぶん十年ぶりぐらいに名前聞いた)のオシャレな主題歌、大槻ケンヂの熱い挿入歌、悪ノリに次ぐ悪ノリとか、あとは二週目から主人公に声がつく(理由は後述)等、演出にも本気さが感じられた。正直エロゲのクオリティでないというか、エロゲで終わるつもりはハナからないという自信が感じられる。あと長い。

内容(ほんとにネタバレするよ?)

 物語の内容を、セカイ系という言葉でもって切って捨てるのは容易いが、ここではもうちょっと踏み込んで紹介してみる。
「人生リベンジADV」を謳っている通り、『スマガ』は死ループ系の話。主人公は死ぬ度に天国へ行き、神様(幼女)に生き返してもらい、人生をやり直す。
 こまかいルールとしては、
 ・主人公に生き返りたいという強い意思がないと生き返れない
 (例外的に神様に強制的に生き返させられることもある)。
 ・生き返る際、やり直せるのは一番最近意識を失ったところから。
  つまり、眠ったり気絶したりというイベントがセーブポイント的な役割を果たし、以後死んだときはそれより前に戻れない。
 ・前世の記憶はそのまま引き継げるわけではなく、主人公に重大な決断が求められる場面に際して初めて、夢として取り戻せる。
  意識を失ってから死ぬまでに重大な決断をする場面が存在しない場合は、選択可能性がないとみなされ、生き返れなくなる。
 という点があげられるだろう。


 舞台となる伊都夏市の設定も面白いが、検索で辿り着いた人が誤爆してネタバレを読んでしまう危険を避けるため、あらすじを書くのは控えておく。


 ゲームの構成に関してこちらは考察の中心になるのでネタバレを露も気にせずに書く。攻略サイトとか見たらわかっちゃうことだろうし。でも、プレイしてない人は……やっぱり見ちゃダメだ。
『スマガ』の構成は、単純なヒロインごとのマルチエンディングではなく、一週目はあるヒロインに関するお話→強制的に最初の日へ→違うヒロインに関するお話→強制的に戻される→違う展開へ進む――というユニークな物になっている。この一週目において設定の大半は明らかにされる。主人公の勘違いなどもあり、その設定が明かされていく過程が面白い。ただこの一週目では記憶を保持したまま次のヒロインルートに進むため、前のヒロインへの好意を主人公が引き摺り、結構シナリオがえぐいことになっている。
 一週目のハーレムエンドを終えると、二週目からはヒロイン三人+サブキャラ二人のマルチエンド。二週目からはなんと主人公が神様になり、テレビを通して新しく産まれ落ちた主人公にアドバイスをすることができるようになる。それにより展開が変わってくる。二週目からはその神様からの視点になるらしく、そのため主人公にボイスがつくが、その他システム面の変更はない。二週目の位置づけは物語的には if 物というかオマケみたいなパートに当たるだろうが、この辺りはエロゲらしいエロゲになってるのでプレイヤー的には一番単純に楽しめるところかも知れない。サブキャラ二人をクリアすると強制的にトゥルーエンドに入る。

ノベルゲームのメタ構造が浮き彫りにするもの(相変わらずネタバレです)

『スマガ』はかなり長編の部類に入るため、切り取って語ろうと思えばいろいろ切り取って語れる部分が出てくる――たとえば、いくつかのぶっとんだご都合主義的話のパターンを一つのゲーム中で出すのに便利な設定とか――のだが、今回はメタフィクション的要素を含むゲームについての考察を述べたいと思う。Wikipediaからメタフィクションの例を引用すると、

* 小説を書く人物に関する小説。
* 小説を読む人物に関する小説。
* 表題、文章の区切り、プロットといったストーリーの約束事に触れるストーリー。
* 通常と異なる順序で読むことができる非線形小説。
* ストーリーに注釈を入れつつストーリーを進める叙述的脚注。
* 著者が登場する小説。
* ストーリーに対する読者の反応を予想するストーリー。
* ストーリーの登場人物に期待される行動であるが故にその行動をとる登場人物。
* 自分がフィクションの中にいる自覚を表明する登場人物(第四の壁を破る、とも言う)。
* フィクション内フィクション。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
 非線形小説がメタフィクションであるならば、ノベルゲームという物語は常にメタフィクション的であるとも言え、それ故かメタフィクションとノベルゲームの相性は極めて良い。この分類の中で『スマガ』に当てはまる要素は、「フィクション内フィクション」、あるいは「自分がフィクションの中にいる自覚を表明する登場人物」であろう。また、ゲームにおいては「ループ物」はほぼメタフィクションであると言って良い。ゲームの中で繰り返しハッピーエンド探しに挑む主人公は、ハッピーエンドを探すため繰り返しゲームをプレイするプレイヤー自身の存在を喚起させるからである。『スマガ』もループものの性質を持っているが、選択肢前に前世の記憶を思い出す(生き返り事態は意識を失ったところからだけど)という性質から考えて、選択肢前にセーブをしてゲームに挑むエロゲーマーの姿により近いものであると言えるだろう。
 Wikipediaにも書いてあるとおり、メタフィクションは読者にフィクションを読んでいるという事実を意識させるものだ。古い小説におけるメタフィクションは、フィクションがフィクションから逃げるための試みだったかも知れない。しかし、フィクションは決してフィクションであることからは逃げられない。いくらメタ的な視点を持ってみても、その一番上の上位に当たる物語も、やはりフィクションである(読者を物語に巻き込む形式のものもあるため、一概には言えないが)。そしてメタ的な視点を存在させれば存在させるほど、逆にフィクションであることを強く意識させるものになってしまう。ならば現代の作家はなぜメタフィクションを書くのか。なぜフィクションがフィクションであることを知らしめるのか。
 一つには、「告発」という意図が挙げられる。極端に言えば「おまえらのやってることはこういうことだ、こんな虚しいことなどやめて現実で恋愛できるように努力せよ」といったテーマをもって書かれていると言うことだ。あるいは、叙述トリックなどと同じく、単に読者やプレイヤーを驚かせるためという理由もある。が、もっと単純に考えれば、メタフィクションの物語が「共感」を喚起しやすいから、という理由があげられるだろう。物語において「共感」と呼ばれる物がどれだけ重要視されているかということに関してはここで論じるまでもない。そしてフィクションの中でフィクションを意識させると言うことは、それ乃ち読者やプレイヤーに彼ら自身と似た境遇の存在を意識させるのと同じ事である。当然読者やプレイヤーは、自分と同じ境遇の登場人物――或いは自分の過去と同じ境遇の登場人物に対して、強い共感を抱くことになる。


『スマガ』におけるメタフィクション的特徴の最たるものは、「神様」と「プレイヤー」の類似性だろう。
 一週目、神様は天国にあるテレビのむこうがわにいる。二週目、一つの結末を知ることによって神様になった主人公は、モノクロ背景の世界で神様(幼女)と一緒に、テレビから、記憶のない新しい主人公を見ることになる。神様は時々主人公にアドバイスを送る以外は物語を傍観し続け、物語が終わったときには感想を言い、時には早送り(スキップ)したりする。神様は主人公の行動を自由に規定することはできない。テレビの中の主人公がハッピーエンドを迎えるなり、ゲームオーバーを迎えるなりすれば、また新しい番組がはじまる――それだけだ。
 これは、「用意された選択肢を選ぶことはできても主人公の行動をこまかく規定することのできない」という、ノベルゲームのプレイヤーの置かれている状況に極めて近い。プレイヤーと神さまは「もどかしさ」という感情を共有することになるが、神さまの視点がそれほど語られないため、共感を呼び起こさない。これは故意的な焦らしだろう。先々で共感を爆発させるために、敢えて抑えていると見るべきだ。プレイヤーは、あまりそれと意識しないまま、神さまと共通の体験をずっと重ね続けることになる。
 そして、それはそのままトゥルーエンドへの伏線になる。
 トゥルーエンドルートでは、神様になっていた主人公が、とあるエンディングを迎えた主人公と一体化して、伊都夏市に舞い戻ってくる。そこで事情を知っているヒロインに心情を語る。以下会話の一部分を引用する。

「いくら神さまになっても――いくら好きな話の筋を選んでも――」
「オレは余計なことを知りすぎていて。彼女たちと、対等な立場には立てなかった」
「同じ立場にいないのに――それなのに、本気で恋愛なんてできるか?」

 ここでは二つのジレンマが語られている。「神さまであるオレ」と「物語の中のオレ」は結局違う、という問題。そして、プレイヤーとヒロインは同じ立場にいないのに、本気の恋愛ができるのかどうか――という問題。とくに後者のジレンマについては、サブヒロインのシナリオでも語られている。ヒロインは、自分が知らないはずの自分を知っている主人公に、恐怖を覚えるのだ。更に言えば、死ねば(リセットすれば)やりなおせると思ってる主人公(プレイヤー)と、物語の登場人物であるヒロインでは、それぞれ全く生きることに関する価値観が異なってくる。その主人公とヒロインの「生きるレイヤーが異なっている」という性質上、ヒロインを騙すことに主眼の置かれるイベントがいくつも登場するのは、仕方のないことだろう。
 さて、エロゲーマーは「物語の登場人物と恋愛できるわけがない」ということを勿論自覚した上で擬似的に恋愛ゲームを楽しんでいる。常に自覚的であるからこそ、この『スマガ』の主人公の持つこの悩みには説得力を感じてしまう。そしてこの主人公に、知らず知らずのうち共感を抱くことになる。
 また、ゲームが進んで行くにつれメタフィクション化が進むのも、プレイヤーの共感を高める。ノベルゲームに限らずあらゆる物語を読み解くとき、読者は始め、ゲームの世界設定を主人公とともに知っていくことになる。が、マルチエンドのノベルゲームを楽しむため二週目、三週目に手を出すと、主人公より多くの設定をプレイヤーは知っている、という事態が起きてしまう。知っていることと知らないことの間には大きな乖離がある――『スマガ』で「二週目から」神さま視点が導入された理由は、この差異を表現するためだろう。(主人公が記憶喪失だというのはメイン的なガジェットではあるが、この辺りのテーマに触れるにあたっても必要な物だっただろう。また、一週目におけるスピカとの恋愛だけがやけに等身大なものに見えるのも、この辺りを意識してのことかもしれない)


 当然こうした問題提議がはっきり言葉で伝えられたからには、トゥルーエンドはそれに対する救いという意味合いを帯びた物になるし、実際そうであった。が、僕にはこのエンディングが単純なご都合主義的救いではなく、ゲームキャラからプレイヤーへの仕返しを演出したもの、というようにも見えた。最後は、単純に表現すれば、主人公と同じ立場にいるヒロイン――そして僕たちプレイヤーの知らない思い出を主人公と共有しているヒロイン――と、主人公が結ばれる話だ。そこには一切プレイヤーの介入の余地はない。選択肢も出そうと思えば出せただろうが、出てこない。これは周回プレイを行う度に常に主人公よりも多くの設定を知ってきたプレイヤーへの仕返しであり、メタフィクションからの突き放しであり、ある意味で救いである――そう考えるのは穿ちすぎだろうか。


 あ、一番お気に入りのキャラは神様(幼女)でした。あと沖。イベントで面白かったのはロミジュリ演劇ぶちこわし。


 話がとっちらかったので(というかプレイ中もういくつか書きたいと思ってたことがあったはずなのだけど、長大すぎて忘れてる)最後にデバッグで参加していた虚淵玄によるあとがきに同意して終わりにしときます。アリデッド姐さんが処女なのは、確かにおかしい。


http://tekitounaotoko.blog4.fc2.com/blog-entry-404.html
3側面からスマガについて考えてるエントリを見つけたのでリンクを貼っておきます。