書評:筒井康隆『短篇小説講義』

短篇小説講義 (岩波新書)
筒井 康隆
岩波書店
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小説というのは、いうまでもなく、何を、どのように書いてもいい自由な文学形式なのだ。

筒井康隆著『短篇小説講義』より引用)

はじめに

 常識に囚われない、独創的で自由な作品作りというのは、物語の作り手にとっては当然とてもとても魅力がある。それを最上の目標として掲げている人間もいるだろう。(もちろん、自分の作品から独創性をできるだけ削りとろうと考えている人もいるのだけど)
 ところがルールを気にせず自由に短篇小説を書いてみろと言われて、独創的な作品を書きあげられる人間はなかなかいない。人間が無意識に支配される(あるいは影響される)動物である以上、「ルールを気にしない」という前提条件が既に無理のあるものだからだ。
 筒井康隆は本書の中で、この無意識の存在を「内在律」と呼んでいる。自分自身の内側にあるルールというわけだ。例えば、あなたが物語を書こうというとき。あなたが過去に触れてきた無数の物語が、既存のルールと化して心の中に巣くい、発想を束縛し、独創的な作品の創造を阻害している。なんでも分解して体系化しようとする気質故か、日本人にはこの傾向が強いそうだ。ちなみに内在律という言葉自体は、俳句の世界でよく使われる言葉らしいのだが、詳しくないので言及は避けておく。勿論過去の作品に触れるのがよくない、というわけではない。既存の作品を土台に据えることでより洗練された作品が産み出された例は多いし、また独創的な作品だと評価されることもある。過去の多くの発想に触れることが、新しいオリジナルの発想を生み出す刺激になることもあるだろう。今回僕が読んだ、『短篇小説講義』も、過去の作品に発想を学ぶというアプローチで書かれている。

著者について

 著者の筒井康隆について説明は必要ないだろうが、それでも簡単に述べると、ライトノベルを書くと宣言してたのに読んだらのいぢ絵の手コキ小説だった、或いはコメディお色気ドラマを見ようと思ったらVシネマだった、で毎度お馴染みの『ビアンカオーバースタディ』を書いた人生歴70年超えの愛すべきお爺ちゃんではあるが、世間的には『時をかける少女』『七瀬ふたたび』『富豪刑事』などの作品で知られる大御所SF作家だ。

内容について

 今回僕が読んだのは、彼が1990年に岩波新書より世に送り出した『短篇小説講義』。以下目次。

1 短篇小説の現況
2 ディケンズ「ジョージ・シルヴァーマンの釈明」
3 ホフマン「隅の窓」
4 アンブロウズ・ビアス「アウル・クリーク橋の一事件」
5 マーク・トウェイン「頭突き羊の物語」
6 ゴーリキー「二十六人の男と一人の少女」
7 トオマス・マン「幻滅」
8 サマセット・モームの短篇小説観
9 新たな短篇小説に向けて
10 ローソン「爆弾犬」

 内容は、小説を「自由に書くべき物だ」と前置きしたうえで、著者自身が選んだ興味深い七編の外国古典短篇小説を紹介したもの。いずれも岩波文庫より発売された短篇集に収録された作品であり、宣伝の意図もあったと思われるが、実際に彼が過去に読んだ200冊の古典短篇集の中で最も面白かった七冊を選んだ、という話だ。

感想

 感想を述べろと言われれば、「面白かったー!」としか言いようがない。面白かった。面白かったー!
 小説以外で読んだ筒井康隆の本はこれが二冊目だが(一冊目は『乱調文学大辞典』)、それが全編を通してシュールな冗談を貫き通すみたいな本だったので、今回も半ばイロモノ的な内容なのではないかと思っていた。ところがどっこい、箱を開けてみると『短篇諸説講義』は実に誠実な内容だった。型にはまった短篇小説が多くなったことを前書きで嘆いてはいる(ちなみに時代背景確認のために書いておくと、初版が1990年)が、その後は精神論を語るわけでもなく、さらに自己流の「短篇はこう書くべし!」というルールを押しつけるでもない(もちろん、押しつけのルールなどを書いては「小説は自由に書く物だ」という前提条件がおかしなことになってしまうのだが、そういった矛盾は小説執筆の指南本には実にありがちである)。前書きである1章やまとめ的な性質をもつ8章,9章を除くと、彼がこの本でやっていることは、過去の外国短篇小説を紹介し、それのどこが独創的と言えるか、どこが興味深いかを紹介しているだけだ。手っ取り早く小説のネタが欲しいと思って読んだ人は、この内容を不親切だと思うかも知れない。しかし、そこは語ってはいけないところだということを、筒井康隆は知っている。そうしたラインを正確に引けるところが、SF作家筒井康隆の小説にも魅力として現れているかも知れない。


 著者本人が選んだと言っているだけあって、紹介されていた短篇は抜粋された物であるにも関わらず、僕にとってどれも魅力的なものだった。
 ディケンズ作『ジョージ・シルヴァーマンの釈明』は「作品そのものが登場人物による記述であり、書かれているのは彼に都合の良い話で、本当の真実は書かれていない可能性」というメタ的な要素を持っているし、冒頭を書き始め倦ねる描写(嘘をつこうとしている人間の特徴)が伏線である、という周到さも素晴らしい。
 他にもエンタテイメントでありながら妙ちきりんな魅力を持った作品がこれでもかと紹介されている。


 その上で筒井は、これらの作品をこれからの作家が模倣することには何の意味もないし、またそうして作られた作品は陳腐なものとして扱われるだろう、ということをはっきりと述べている。筒井は、この本には自戒の意味も込められている、と別章で述べている。過去の独創的な小説を紹介することは、実際の所その人が取りうる選択肢の幅を狭めるだけの物かも知れない。しかしそれらは一人の大きな支持を得ているSF作家の根底をなしているものだ。その面白さと刺激はこれから小説を書こうとしている人間にも間違いなくプラスの影響を及ぼすだろう。


 8、9章でひとまとめ終えた後、最後の章で彼は、「筒井康隆みたいな短篇小説を書きたくてこの本を手に取った人(つまり僕のことだ)」のために、自身お得意のスラップスティック(ドタバタ)の書き方について、『爆弾犬』という作品を取りあげて実践的、実用的な指南を行っている。「無関係の人間が被害を被る面白さ」「未来に起こる事件の予感」「事件を予感の描写の過剰さ」「妨害(焦らし)」「馬鹿キャラクターの行動ルール」「意図的な説明不足」「事件が起こってもいいタイミングを作る(でも起こらない)」「一時的な言語障害」「捻った皮肉オチ」等々、コメディのルールをこれでもかとばかりに提示している。オマケ的な物とはいえ、この章に書かれていることは、実践的という意味においてこの本の前提を裏切る内容になっているかも知れないが、それ自体が筒井康隆流のジョークであるようにも思えるし、誠実に、ストイックに書ききったことで鬱憤が溜まっていたのかも知れない、というのは少し意地悪な見方だろうか。


 ともあれ、70歳を超えてなおもエンターテイナーかつ先鋭的であろうとする筒井康隆の地力を支えている物がなんなのか、この本から垣間見ることができるだろう。機会があれば、彼の書いた短篇をもっと読んでみたいと思う。

参考:(筒井康隆、短篇小説講義、岩波書店、1990)