感想:修辞的思考―論理でとらえきれぬもの

修辞的思考―論理でとらえきれぬもの (オピニオン叢書)
香西 秀信
明治図書出版
売り上げランキング: 216390
おすすめ度の平均: 5.0
5 論理でとらえきれぬものを論理的に読み解く良書

 誤解を避けるためにさらに付け加える。ここでいうレトリックはいわゆるレトリカルな装いをしている必要はまったくない。読者を操ろうとすることなど嫌いだとして、自分はなるべくレトリックを廃した中立で客観的な文章を書きたいとある著者が言うとき、彼はまさにそのような姿勢によって自身の文章に説得力をもたせようとしているのである。

香西秀信著『修辞的思考 論理でとらえきれぬもの』より引用。以下引用全て同書より)
 論理と修辞をどう扱うか――文章を扱う人間にとって、それは永遠のテーマであるといえる。

レトリックとはなんだろう

 本を読んでいると、「普段から感じてはいるが、巧く言語化できてないない物」にぴったりな表現を与える、強度のある文章に出会うことがある。また、内容の妥当性についてしっかり咀嚼できていないのに、なんとなく、その文章自体に丸め込まれて納得してしまうような、奇妙な力を持った文章にも良く出会う。その二つはよく似ている。敢えてそれらがどのような属性を持つかざっくばらんに類別するなら、前者は論理的な文章であり、後者は修辞的な文章であると言えるだろうが、しかしもし、僕らが長大な書物を読むときに、どの文章群が論理的でありどの文章群が修辞的であるか、ということをいちいち気にしてはいられないし、往々にしてよく取り違えてしまっている。僕らはいったいどれだけの修辞的詭弁に晒されているのだろう。また、自分で気づかぬうちに詭弁を唱えてしまっているのだろう。どれだけのレトリック(修辞技法)に溺れているのだろう。


 レトリックという言葉は、「修辞技法」そのもののことを指して使用されることもあれば、これらを総括した「修辞学」を指して使うこともある。修辞学はかつて演説で聴衆の心理を操るために使用されることを想定されて研究されたらしい。(ちなみにレトリックについては具体的にどんな修辞技法があるのか、ということを語るにはあまりにもその数が膨大すぎる。Wikipediaやあるいはふき出しのレトリック(http://members3.jcom.home.ne.jp/balloon_rhetoric/index.html)などを参考にするとわかりやすい)


 さて、今回僕が手に取った本は明治図書出版のオピニオン叢書シリーズである、『修辞的思考 論理でとらえきれぬもの』だ。前書きにて執筆の姿勢が述べられているので、引用する。

 私は、この本を、何よりも国語教師のための「啓蒙書」として書いた。これによって、ある言語作品のもつ説得力を、すべてレトリック、技巧の問題に還元して論じきる姿勢と方法とを伝えたかったのである。しかし、啓蒙書だからといって、そのレヴェル学術論文よりも落とすつもりは毛頭なかった。読者に本を選ぶ権利があるように、著者にも読者を選ぶ権利があるなどと考えたからではない。レヴェルを落とさぬ啓蒙書を書くことによって、私自身の修辞的思考が試されると思ったからである。

 恐らくこの文章の中にも、既にいくつか修辞的なテクニックが隠されているだろう。なぜただ「力を試す」とだけ言わずに、「著者にも読者を選ぶ権利があるなどと考えたからではない」という前置きをする必要があったのか。その方が誠実さを「演出」できるからではないだろうか。

 この例を見て貰ってもわかるように、修辞的技法というのは嘘を本当に見せかけるような詭弁的な論法ばかりをさすものではない。それらは時にただ、自説の論理――少なくとも、自分では正しいと考えている論理を、さらに強固に演出する。たとえば証明を伝えるときに、ただ一つで論理的に充分である証明を一つ出すよりも、論理性に乏しい根拠をいくつか並べた後で充分な証明を述べた方が、説得力が増す、という例がこの本では紹介されている。「論証の厚み」というそうだ。

 この本の著者であり修辞学者である香西秀信は、他にも多くの修辞に関する本を世に送り出している。『論争と「詭弁」レトリックのための弁明』(丸善)『論より「詭弁」 反論理的思考のすすめ』(光文社)など、タイトルを見ればそのコンセプトは明瞭だ。また中嶋香緒里との共著になるが、『レトリック式作文練習法 古代ローマの少年はどのようにして文章の書き方を学んだか』(明治図書出版)という本にも多いに興味を惹かれる。

内容

 この本の中に出てくるレトリックの種類はそう多くないが、そのぶん、それらがどういった性質の物であるかが詳しく書き込まれている。例を挙げると、シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』の第二場、ブルータスとアントニーの演説(二つの演説を並べるだけでドラマにしてしまえるシェイクスピアには脱帽だが)を取り上げ、弁論術における説得の三手段「性格(エートス)」「感情(パトス)」「論理(ロゴス)」を取り上げている。ブルータスの演説は、普段の自分の公明正大性を信じて貰うことが前提の、「エートス」に訴えかける物であり、このエートスが「思慮」「徳」「好意」の三つに外観に分解できると述べている。また二者択一の両極端な質問を用意し、中庸の答を模索させない「両刀論法」、自分の行動を支持しない人間に悪いレッテルを貼ったうえで、そういう人間のことをどう思うか、という本当は無意味な質問を幾つもする「多問の虚偽」など、論理的とはいえない修辞的な技法で聴衆の賛同を取り付ける。
 アントニーはさらに多くの修辞的技法(怒りや具体性、利害)を使ってブルータスの築いた「エートス」を切り崩すのだが、ここで紹介するには量が多すぎるので本書の一読をお勧めする。

 僕がこの本で最も面白いと感じたのは、第二話(この本では章立てに「話」という語句を使っている)だ。ラ=ロシュフコーの著作格言集である『マクシム』を取り上げ、「逆接」と「通念」に関する話を論じている。逆接は真実でもなければ、単なる対義結合(矛盾した、本来ならば互いに相容れないように思われる二つの語を結びつけた、対照法の一種。有難迷惑、嬉しい悲鳴、など)ではない。さらに通念を打ち負かすものでもない。打ち負かされない通念がなければ、逆接も存在することはできないのである。

山月記』の話(緩叙法など)、『罪と罰』(「類(定義)からの議論」と「結果からの議論」など)の話、そして『青春について』(そのものずばり屁理屈)の話なども、強く興味を持って読めた。特に「結果からの議論」による自己欺瞞などは、知らず知らずのうちに自分でも使ってしまってるなあ、と思わず苦笑してしまうほどだ。

感想

 実用的、というよりは、堅苦しくない学術系の本という印象だ(そもそもライフハックやハウツーを実用的だと感じたことはないけど)。
 恐らく実用的と感じるようになるには、実際の会話時に、意識せずにこれらのテクニックを用いることができるぐらいにならなければなるまい。
 ただし、公の場やブログの記事にこれらのレトリックを意識的に用いると、誰かにその論理の瑕疵性を突っ込まれてしまうに違いない。逆にそういう場合には、自分の使う詭弁的レトリックを控えるように意識する役に立つだろう。冒頭で引用したように、誰のどのような文言にも修辞的な表現、修辞的思考は忍び込んでくる。他者の回りくどい物言いの中に本人も意識していないようなレトリックが存在し、そして聴き手である自分にも知らず知らずのうちにそれが作用している。騙すにしろ騙されるにしろ、それを意識することは、取りも直さず自分の心理のありようと向き合うことと等しい。自分の心の中で何が起こっているのか、思索してみるのも楽しいかも知れない。