書評:村上春樹『パン屋再襲撃』

パン屋再襲撃 (文春文庫)
村上 春樹
文藝春秋
売り上げランキング: 11160
おすすめ度の平均: 4.0
5 何といっても「ファミリーアフェア」
3 村上春樹はこんなに詰まらなかったのか、と一寸、驚いている。
5 不思議さん
5 「わからないものはわからない。」でいいという人生。
5 質の高い短編集

あれ、と思うとき。

 普段ライトノベルやミステリーを読んでいると、テンプレート化された「物語の構造」を意識してしまうことが多い。
 なので時折、例えばノーベル賞の候補として名前があがっている(http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-34098120081004)から……という理由で村上春樹の短篇小説などを読むと、その構造が掴めず「あれ?」と感じてしまう。
 話を読み進め、それでそれで? と思ったところで話が終わってしまうのだ。


 たとえば作中で出てきた奇妙な出来事に対し合理的な説明がなされるわけではない。この短篇集中にある『象の消失』では象が消失した理由は結局描かれない。かといって、お伽話のようにそれによって主人公にどんな変化があったが記されているかといえば、やはりそこもはっきりと語られるわけではない。伏線だと思っていたことは実はそれ単体で完結している物だったりする。ギャグのないギャグ漫画、事件の起こらないミステリ、恋愛の駆け引きをしないラブコメであり、未来人も宇宙人も超能力者もいない涼宮ハルヒであるように感じるが、しかしそれだけではない。では村上春樹の短篇の魅力とは一体何だろう。


 その魅力は、登場人物の不思議な感性にある、という人がいる。
 頽廃的であったり、虚無感を纏っていたり、ただ「なんとなく」、或いは他人には理解できないような理由で、日常的でない行動、反社会的行動を取ったりする。主人公は無感動に見え、「おどろいた」、と書いてあっても驚いているようには見えない。そこにあ垣間見える人間という動物の本質的な儚さは、確かに魅力的だろう。


 その魅力は文体にある、という人がいる。
 平易な文章。文章の形は非常に平坦だ。語尾は大抵「〜した」「〜だった」などで終わっており、体言止めなど、文章の形を変えるレトリックをあまり使わない。その代わり、独特な比喩や誇大表現を多用する。

 目を覚ましてしばらくすると、『オズの魔法使い』に出てくる竜巻のように空腹感が襲いかかってきた。それは理不尽と言っていいほどの圧倒的な空腹感だった。

(短篇集『パン屋再襲撃』中『パン屋再襲撃』より引用)
 普通誇張された表現が多く出てくれば、その分文章は読みにくくなる。平易な文型を用いることによって、読みやすさと味を両立させている。翻訳小説風とも言われるこの文章が、多くの人に読まれ、魅力的であると受け止められていることに不思議はない。

考察

 村上春樹の短篇はレトリックと人間観に魅力があると書いたが、無論それだけではないだろう。それが何なのかはっきり答を出すのは不可能だろうし、出せたとしても恐らく無粋なものにしかならない。それでもそこにある魅力をあと少しだけ浮き彫りにするため、この短篇集に載っている一つ一つの短篇の内容を表面的に考察して、終わりにしたいと思う。


パン屋再襲撃
 本のタイトルにもなっている短篇。クロスチャンネルでも些か唐突な形でネタにされていた。(太一「では放送部の再集結を祝ってこれよりパン屋を再襲撃します」)村上はこの短篇集の出る五年前に『パン屋襲撃』という短篇を発表しており、これはその続編であるが、単体でじゅうぶん楽しめるように書かれている。
 荒唐無稽なコメディとも言える話だ。散弾銃所持といい、マクドナルドでの犯行手際といい、いったい妻は何者なのだというのが最大のツッコミ所だろう。二人がパン屋を再襲撃するための理論も、常識的に考えれば無茶苦茶で滑稽だ。が、滑稽であるにも関わらず、なんとなくわかってしまう。何かの目的を持って行動しようとした際に、その行動がうまく行っていないにも関わらず、目的が果たされてしまうということは少なくない。そういったとき――特に強い覚悟をもってとある行動に望もうとした場合に――手段と目的が入れ替わることがある。結果的に抱く感情が「拍子抜け」程度の空虚感で済めばいいが、うまくいかなければ飢餓感を長くこじらせてしまうことがある、目的が果たされている故、その欲望は決して満たされることがない。常に「空腹」だということになってしまう……その感情を描いたのがこの作品ということになろうか。
 この作品ではそれを解消しに行ったためシュールなコメディになっているが、実際には代わりに何かコトが起こせるわけではないし、何かをやってみたところでその「呪い」が解けるかはわからない。結局の所、人はその感情をずっと抱え続けなければならないのだろう。


象の消滅
 全体を通して一番シュールかも知れない。ある種の喪失感を描いており、その点では欲望がベースではないものの『パン屋再襲撃』に似ているかも知れない。象と飼育員がなにを比喩したものなのかちょっと気になるが、そもそも比喩だなんだ、というものがあること前提に読み解くのもおかしな話だろう。


ファミリー・アフェア
 いちばん解釈しやすいというか、ちょっと切ないな、と普通に思える。誰にでも心当たりのありそうな感情、葛藤が描かれてる作品だろう。
主人公と妹と婚約者のやりとりにおける、それぞれのありがちな距離感が面白い。ツンデレライクで。

「冗談のつもりなのよ」と妹がうんざりしたように言った。「そういうのが好きな人なの」
「冗談だよ」と僕も言った。「家事を分担してるんだ。彼女が選択して、僕が冗談を言う」
 コンピューター技師は――渡辺昇というのが正確な名前だ――それを聞いて少し安心したように笑った。
「明るくていいじゃないですか。僕もそういう家庭が持ちたいな。明るいのがいちばんです」
「ほらね」と僕は妹に言った。「明るいのがいちばんだ。君が神経質すぎるんだ」
「面白い冗談ならね」と妹は言った。

あとラストのやりとりも。ツンデレライクで。

「ねえ、今日私、あなたにひどいことを言ったかしら? つまりあなた自身についてとか、あなたとの生活についてとか……?」
「いや」と僕は言った。
「本当?」
「君はここのところずっと正当なことしか言ってない。だから気にすることはない。でもどうして急にそんなこと思ったんだ?」
「彼が帰っちゃってからずっとここであなたの帰りを待っているうちに、ふとそう思ったの。ちょっといいすぎたんじゃないかってね」

 この話が読者の感情に訴えかけてくる物は、親しい家族が遠くに行ってしまう喪失感ではない。いや、勿論喪失感も関係はしているが、しかし主に語られるべきは、やめる切欠のないまま自堕落な生活を続けている主人公の焦燥感のほうであろう。この後、妹が結婚して主人公が一人暮らしを始めたとき、どんな変化が起こるのかが気になる。誰だって、未来のことが不安なのだ。


『双子と沈んだ大陸』
 喪失感、ともなんとも言えない不思議な感覚。ここまで見てきただけでも、女の子との会話が中心、という話が多い。この話の中で、女へ余計に払ったお金とともに黒い鞄に仕舞われる「何か」が象徴しているように、人と話をするだけで解決してしまう、あるいは変質してしまう心の問題は多いし、普段しない話を人とするということはそれだけでドラマでもあるように思う。


ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーポーランド侵入・そして強風世界』
 何言ってるんだろう、ってのが後から明かされる一発ネタの、短篇らしい短篇だと思う。


『ねじまき鳥と火曜日の女たち』
 正直良くわからなかったというのが本音だが、やはり奇妙に惹かれる話。いつか、これを下敷きにして書かれた『ねじまき鳥クロニクル』を読んで、この感覚が何なのか確かめてみたいと思う。