感想:西尾維新『偽物語[上]』

偽物語(上) (講談社BOX)
偽物語(上) (講談社BOX)
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西尾 維新
講談社
売り上げランキング: 1024
おすすめ度の平均: 4.5
5 阿良々木ハーレム
5 いつも通り……なのか?
5 やっぱり面白い
3 アニメ化されるから続編?
5 阿良々木くんは主人公じゃない、奴隷公よ!

「火憐ちゃん」
 と、呼びかける。
 状況が状況で急いていた所為もあり、うっかりと火憐のことを名前で呼んでしまったが、それはともかくとして。
 続けて言った。
「今からお前とキスするぞ」

偽物語、感想

 議題は「偽物」と「本物」。物語の中心は兄妹喧嘩と戦場ヶ原の過去。構成の核はでん! でん! でん! とざっくり配置された主人公対ヒロインの一対一の漫才。そう決めたらあとは小道具だ――ぐらいの割り切りが見える、いかにも化物語シリーズらしい作品。アニメ化に関する言及がしつこ過ぎるぐらいしつこいのに大して鬱陶しく感じられないのも、物語の大半がそもそも小道具に過ぎないからだ(もちろん、その小道具をテーマに絡ませる巧さがあってこそのものだが)。
 それにしても戦場ヶ原が相変わらずサイコで安心(?)した。忍が普通に話し始めたときは、正直ちょっと嬉しかった。なんで化物語の時は一切喋らなかったのよ、まだキャラが固まってなかったの? って言いたくなるぐらい。あと千石の方向性がおかしなことに。
 火憐は真っ直ぐすぎるぐらい真っ直ぐだったけど、月火はより一癖も二癖もありそうなキャラで、下巻が楽しみ。出るなら、だけど。

化物語シリーズについて

 さて、僕が西尾維新を初めてまともに読んだのは随分最近のこと(今年の頭ぐらい)で、それこそ『化物語』の上下巻が最初の作品ということになる。よって戯言シリーズから読んだという人はまた違う感想を持つのかも知れないが、僕が西尾維新に抱いた第一印象は、「シチュエーションの限定」によって美少女ゲーム的なノリの会話を小説の中に落とし込むのが巧い作家、という物だった。

 化物語シリーズは、シリアスシーン以外では、主人公とヒロインは基本的に一対一で会話する。特に『偽物語り[上]』では、「最終回か?」と自己言及が入るほどにその要素が顕著だったように思う。面白エピソードを交えつつ妹達を紹介したり現状の説明をしたりした後のガハラさんとの会話、回想に入っての月火との会話、道中での八九寺との会話、千石との部屋での会話、神原との電話、火憐とばったり会っての会話、神原との部屋での会話、神原の家の前での貝木との会話、戦場ヶ原とばったり出会っての会話――から監禁シーンに戻っての会話。そこで一度、「妹二人と羽川との四人の会話」があり、羽川、忍、月火。羽川、火憐、道の途中で八九寺、戦場ヶ原との部屋での会話、月火との会話、火憐と戦闘しながらの会話。そして拍子抜けな解決編はガハラさんと貝木と三人であり、エピローグは妹二人との会話だ。

 例えば細かいシーンにおいても、神原の家で暦がお婆ちゃんと話をするときも神原はいないし(これは神原の家族が神原に遠慮してるため、という部分もあるだろうが)、忍にアドバイスを求めるシーンなどでは当然二人きりになる。

 基本的に三人以上での会話があるときはシリアスシーンか、或いは物語が進んでいるシーンである。会話のテンポよりも、暦の抱く雑感やメインになる。
結果的にか、同級生であるにも関わらず戦場ヶ原と羽川との直接の絡みが殆ど描かれず、それぞれの口から断片的な言及によって、裏でどんなことになっているのかと想像させるような面白い効果を産んでいる。実際、西尾維新の書く極端なギャグの多くは、全体像を「見せない」ことによって成り立っている。

 僕はこれを美少女ゲームでウィンドウの中心にヒロインの立ち絵が来て、主人公と喋っているような雰囲気であるように受け取った。もちろんそういったゲームに複数人で会話するシーンがないわけではない。が、小説で美少女ゲーム的なノリの会話を展開しようと思ったら、複数人と同時に会話をするのは得策ではないだろう。ゲームならば複数人で会話していても、セリフの前に名前を出し立ち絵を動かせば一瞬で誰の発言かわかる。小説であっても、二人での会話なら地の文での説明がなくても、鉤括弧が入る度に発言者が入れ替わっていることを理解できる。化物語シリーズで多用されているのはこれで、面白い動作、特徴的な動作以外は描写を挟まず、ツッコミ、或いは補足的な説明だけを会話の中に差し挟んでいることが多い。それらは多く「漫才的である」と評価されている。しかし三人以上での会話となればそれぞれのセリフが誰の発言なのかを、何かでわかるようにする必要がある。口調などでわかるようにすることもできるが、読者にそこからの読解を求めれば、結局読む側のテンポにブレーキをかけるという意味では同じだ。
 だからギャグ会話を書く場合には、三人以上の会話の描写が極端に少なくなる。これが僕の感じた「シチュエーションの限定」だ。正直、アニメ化でこの辺りがどう表現されるのか、いろんな意味でちょっと楽しみだ。

 とか考えてたらニコニコ動画でゲーム版CLANNADの風子の絵を使って八九寺との会話シーンをゲーム風に置き換えてる動画を見かけてみんな同じ事考えてるんだなーと思ってしまった。化物語を読んで八九寺が風子、神原がいかれた智代だと思ったのは良き思い出。

 脱線的な漫才を多用してる中で、その漫才の内容が後で「ここに繋がるのかー」って感じにしてるのはちょっと卑怯な感じもするけどやはり巧い。単体で見たときもちゃんとギャグになってるし。