感想:亀和田 武『人ったらし』

人ったらし (文春新書 597)
亀和田 武
文藝春秋
売り上げランキング: 211754
おすすめ度の平均: 3.5
3 「人ったらし」になるコツを伝授といわれても…
3 これを読んでもまねはできない・・・
3 物真似されるような人は総じて「人ったらし」であることが多い
4 憧れるけれども・・・
5 作家、谷中 って どなたのことでしょう。


 前書きにも書いてあるとおり、この本を読んだ人がすぐに「人ったらし」になれるかといえば、そうではない。なれないし、恐らくは、なりたいとも思わないだろう。「人ったらし」は見て(誑されて)楽しむ物だと思うようになるはずだ。それ故、人を騙す方法や人に好かれる方法を知りたくて読んだ人には、がっかりな内容かも知れない。そもそもこの本はハウトゥー本ではなく、筆者である亀和田武が編集者や作家として会った多くの有名人の中から、不思議と皆に好かれていたり不思議と魅力的だったりした人物を列挙し、その魅力について考察した物に過ぎない。
 この本の中には、人に好かれる方法を指南するような、実用的(を自称する)心理学ハウトゥー本を揶揄する表現がでてくる。とくにそういった本の代表格とも言える「人たらし」本を名指しし、「人たらし」は「人ったらし」に比べて言葉としても格好悪いという旨を、本の最初と最後で二度にわたり述べている。以下、「おわりに」という章より引用。

 くどいけど、「人たらし」じゃ駄目なんだ。「人たらし」。なんだか伸び伸びした感じに乏しく、かっこ悪くないか。もし同じ人間のことをとりあげても、「人たらし」と書いたら、スケールも魅力も半減してしまう。
 その点、「人ったらし」という言葉には、と自慢したくなってくる。下世話さゆえのフットワークの切れがある。肩で風を切ってストリートをうろつく男や女たちの、リアルな世間知が浮かび上がってくる。

 この文章を読んで、「正直ちょっとオッサン臭いセンス」だな、と思った人の感性はたぶん正しい。僕もそう思った。そして事実この本に実名で出てくる「人ったらし」な方々の多くはオッサンであるか、もしくは既に鬼籍に入っている。この本『人ったらし』は、男の古びた浪漫的なおおらかさが苦手だという人には面白く読めないかもしれない。もっとも、筆者の名前を見て本を買った人や、帯に書いてあった「珠玉のストリート人間学」なんて言葉を読んで納得して本を買った人には、関係のない話かもしれないが。

 実際のところ僕はハウトゥー本が好きだったりして、特にその中でもどう考えても実用的でないようなくだらない物が好きだったりする。大抵、読むのが好きなだけで実行する気はない。自分を変えるために本を読んでいるのではなく、普段意識してない自分のある側面に気づくために読んでいるような気がする。だから『人ったらし』が実用的な本ではないと前書きに書かれているのを読んだときも、そして序盤を読んで実際に実用的な本ではないと確認できたときも、やはりいつも僕がハウトゥー本を読んでしているような楽しみ方をすればいいのかな、と思っていた。
 ところが、実際に実行できそうないくつかの部分を除いたこの本の大部分は、恐らく多くの人間にとって、「自分はどうだろう?」ということすら考えさせないような内容で占められている。芸能人・有名人以外がこれをやって、果たして本当に「たらされるか」と言えばそんなことはないだろう、という物も多く、また芸能人だからって許されるのか、という反感を覚えるような内容も少なくない。勿論筆者もそれはわかって書いているのだろう。
 それでも最終的には「仕方ないなあ」という気にさせられ、同時に、確かにそれらのエピソードからある種の勇気を与えられてしまっているのだ。不思議だ。その不思議さこそが、「人ったらし」ということなのだろう。前述したように僕には「人ったらし」になりたいなんて思えないし、なろうと思ってもなれないだろうが、それでいいと感じる。騙されて痛い目を見ないような位置から時々眺めて、力をもらうぐらいが丁度いいのではないか、と思う。
 ただ、この本に書かれている人たちのことを「仕方ないなあ」と思えるのは、この本に書かれた人々が人ったらしであるのと同じように、亀和田武の文章が人ったらしの文章であることが本当の理由かも知れない、とも思う。