感想:竹宮ゆゆこ『わたしたちの田村くん』

わたしたちの田村くん (電撃文庫)
竹宮 ゆゆこ
メディアワークス
売り上げランキング: 4030
おすすめ度の平均: 4.5
5 あることがきっかけで・・・。
4 大人こそ読むべき本
5 ありがちだけど新鮮☆
5 思春期に読んでよかった!
5 先週この本を

「……あんたは、わからないんじゃなくて、なんにも考えてないんだよ。あたしじゃなくても、『まつざわさん』じゃなくても、泣いている人の姿見えたら、そっちに突っ走らずには、いられないんだよ」
 震える声が、俺に告げる。
「……それはね、ぜんぜん、優しさなんかじゃない。……ものすごく……ものすごく! 残酷な、ことだよ」

 全二巻読んでの感想デス。

とある引っかかり

 漫画などによくある「優柔不断故に二股、或いはハーレム状態に身を置くことになってしまう主人公」と、エロゲなんかに多いと思われる「ルート外の、確かに存在するはずの女の子の不幸を見ないで済む主人公」と、果たして物語的にはどちらが誠実なのだろうか、などと考えても詮無きことを時々考えたりする。突き詰めて考えれば物語に誠実さなんてものを求めることが馬鹿げているのであろうし、ぶっちゃけて言えば嗜好の問題でしかないだろう。ただ僕はこの『わたしたちの田村くん』を読んで、少し奇妙な心地になった。それは、この物語が二股物的な性質を持ちながら、妙にマルチヒロイン形式のエロゲ的であると感じてしまったからだ。ちなみにこれを書きながら知ったことだが、『わたしたちの田村くん』の著者である竹宮ゆゆこはゲームライターの経験がある。その作品をプレイしていればそれに絡めた話がもうちょっとできたかも知れない。

 ところで「ルート外の、確かに存在するはずの女の子の不幸を見ないで済んでいる主人公」を、僕は多くのエロゲが持つ最大の欺瞞だと考えている。一つのフラグが立つことによって、その他のフラグが潰える。それは、誰かに恋をしたから他の恋が消滅する、という順当な構図ばかりではない。中には深夜に学校へ忘れ物に取りに行くだけでルートは決定し、その他のヒロインが主人公に彼女自身の悩みや弱みを見せることがなくなる――下手をすれば、問題事が自然消滅(或いは不自然消滅)するようなのもある。どっちにしろ、鈍感主人公達はそれらの問題を気に留めない。多くのエロゲ主人公は、誰を選ぶかという選択にすら晒されていない。作品世界に視点をおけば奇妙な偶然であり、創作論としては物語の体裁を守るためのご都合主義である。僕はご都合主義バンザイなので善し悪しを語るつもりはないけれど。

 ではなぜ僕はヒロイン二人の問題に主人公がどっぷり足を踏み入れてる『わたしたちの田村くん』をエロゲ的と感じたのか。
 以下、『わたしたちの田村くん』の特徴的な部分をいくつか挙げてみたいと思う。

 ……ちなみに以後僕は「エロゲ的」「エロゲ的」と連発するが、無論、『WHITE ALBUM』みたいに二股や修羅場を題材にしたエロゲはたくさんあるし、最近は主人公の過去に比重を置いた物が増えている。僕がここで「エロゲ的」と述べているのは、少し古いマルチヒロイン系エロゲのステレオタイプだと僕が勝手に思っている物、固定観念含みの亡霊みたいな物でしかないかも知れない。
 またこれは『わたしたちの田村くん』がエロゲを意識して書かれた物だと決めつける論ではない。物語の持つ独特な雰囲気がどんな要素によって構成されているか、エロゲという補助線を導入することで明らかにしようというだけのことである。

わたしたちの田村くん』のエロゲ的部分。

 さて、話を本題に戻そう。まず主人公とヒロインの関係性について考えたい。
 優秀な兄や弟に対し、実に平々凡々なる自分――というコンプレックスこそ持っている物の、それらをたいして苦には思っておらず、自身の過去にはたいした物語を持たない主人公。
 それに対し、電波的妄想で自分を守っている「グズ助」の松澤小牧と、『とらドラ』大河のプロトタイプとも言える直情的・不安定・爆弾行動娘、相馬広香は、それぞれ過去、及び現在に大きな傷を持っている。
 そして主人公は案の定二人の問題に簡単に足を踏み入れてしまうわけだが、まずこの二人のヒロインに纏わる話の構造の少々システマチックな類似性が、マルチルート方式のエロゲ的であるように思える。時系列こそ大きく違う物の、構造はほぼ並列的な関係にある。
 敢えて時系列以外での二つのルート違いを挙げるならば、導入部分。主人公は松澤にははじめから好意ありきで心の領域に踏み込んだのであり、相馬の問題に踏み込む切欠になったのは偶然――少なくとも主人公の恋愛感情があってのことではない――という部分だ。その差異が、最終的な主人公の決断に決定的な差をもたらしたと言えるだろう。

 また、最初から最後まで松澤、相馬の二つのルートが独立していて、交錯しないことも、大きな特徴だ。
 一巻では最後で松澤から手紙が来るまで、ともすれば「前半の田村くんと後半の田村くんは違う田村くんだったっけ?」と思う読者がいるかもしれないほどきっぱり二つの話は別れているし、二巻でも結局最後まで二人のヒロインが直接出会うことはない。松澤周りの関係者と相馬周りの関係者もほぼ繋がっていない、という徹底ぶりだ。
 勿論これは作者の竹宮ゆゆこが、「松澤と相馬を直接対峙させない」ということをルールとしてはじめから決めておいたのだろう。この二人が出会うシーンがあれば、この作品はまたがらっと違った雰囲気になっていたに違いない。主人公が一度目にバス停に行ったとき、松澤に会えなかったのは、相馬の自転車に乗っていたからと言って過言ではない。このお話の中心は二人のヒロインに挟まれての修羅場であるにも関わらず、常に「田村・松澤」「相馬・田村」のどちらかの、二人の世界に閉じている。
 そう考えると、『わたしたちの田村くん』というタイトルそのものが実に恣意的な物に思えてくる。松澤、相馬が「わたしたち」を実感する機会はほぼないはずなのだから。
 古いエロゲには、ヒロイン同士の横の繋がりが全く持って希薄な物が多くある。ライターが複数いたりして絡みが書きづらいというのが、その最たる原因だろう。最近では面倒なライター同士の摺り合わせをしてでもヒロインに横の繋がりを持たせようというエロゲ作品が多くなっている。意識的にやっているということは、それだけ重要視されているということだ。逆に言うと、竹宮ゆゆこが小説という媒体であるにも関わらず、ヒロイン同士を絡ませなかったのは、「敢えて」だということは明確だろう。

 エロゲへの言及ついでにもう少し触れておくと、田中ロミオの『CROSS†CHANNEL』や『最果てのイマ』は基本的に一本道だし、『ひぐらしのなく頃に』もそうだ。或いはあかべぇそふとつぅの『車輪の国、向日葵の少女』は、全ての女の子の問題を解決する一本道に、オマケ要素としてそれぞれのヒロインとのエンディングが用意されているものである。ニトロプラスの『スマガ』はゲームをプレイする人間の視点をも物語に含めることで一つの物語に統合している。
 潜在的に(あるいは顕在的に)それまでのマルチエンディングに疑問を持っていた層から支持を受けたというのが、ヒットの遠因と言えるかも知れない。
 これらのゲームもプレイヤーや主人公にヒロインの選択を突きつけるような意地悪な作りになっていないという点で、ご都合主義的だと言えるだろう。

結論

 この二点が、僕が『わたしたちの田村くん』がなんとなくエロゲ的に見えたという理由であると思う。ところで、マルチエンディング方式が可能である、ということがエロゲの特徴であるならば、当然のようにエロゲを消費する人間にとっては、小説という媒体はマルチエンディング方式が困難(あるいは不自然)である、という特徴を持つことになる。
 とすると、エロゲの方がカバーできる範囲が広く優れてるではないか、と思うかも知れないが、マルチエンディングにできるはずの物をしない――ということを行うのは、それはそれで難しいことだ。サービスが悪いと言うことになってしまうからである。『わたしたちの田村くん』は、エロゲ的な構造を持ちながらも、小説ならではの終わりを迎えたという言い方をすることもできるだろう。

 二つの独立したお話を軸に田村くんの悩みは展開し、彼が最終的な結論を出すくだりは順当であり、順当ゆえに平凡であるようも見える。が、ヒロイン側である相馬が、知らないはずの松澤の手助けとも言えるような言動をするのは、『とらドラ!』のような仲良し空間で何度も起こっているそれよりも、強い意志を持ったもののように見える。相馬、強い子だ。

 つらつらと語ってきたが、そんな小難しい理屈をこね回さなくても『わたしたちの田村くん』は実に甘酸っぱすぎるほど甘酸っぱいハイテンションラブコメである。むしろコメラブである。続編が読みたい(ような読みたくないような)完結作品、という意味では、かなり上位に入るかも知れない。